♰ キリストにおいてすべてを新しく見る ♰

Generic filters
Exact matches only
Filter by content type
Comments
Attachments

教皇の意向:周辺に追いやられて生活する人々 (9月)

年間第三月曜日(1/23)

FacebookTwitterEmailLinePrintFriendly

彼は汚れた霊に取りつかれている

マルコ3:30

聖フランシスコ・サレジオ司祭教会博士

集会祈願

🌸 第一朗読 (ヘブライ9:15、24-28)

ヘブライ人への手紙
 15〔皆さん、〕キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。
 24なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 25また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 26もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 27また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 28キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

🌸 答唱詩編 詩編89 典38 ①②

アレルヤ唱 典269 ㉙

🌸 福音朗読 (マルコ3.22-30)

マルコによる福音
  22〔その時〕エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。 29しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 悪霊に憑かれた人の存在は、イエスの時代の人々にとって、わたしたちが想像する以上に脅威。それゆえ、悪霊の追放は、ガリラヤの庶民にとって、病気の癒し以上に驚くべきことで、それによってイエスの教えを権威あるものとして歓迎した。
 しかし、エルサレムから来た律法学者は、そのような不思議を行うイエスを素直に認めることができない。あの田舎者に何ができるのか、とイエスに難癖をつける。そして、旧約聖書に登場する悪霊の頭「ベルゼブルに取りつかれている」とか、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と、中傷する。(列下1.1エクロンの神、バアル・ゼブブ)
イエスは、彼らの考えの誤りを、互いに争い合うサタンの例をもって明らかにしようとするが、彼らは、イエスが聖霊を注がれたもの、霊に満ちあふれた方であることを根本から認めようとしない。
 だから、後半の厳しい言葉が出て来る。「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。
イエスがなさる癒しの業、悪霊の追放は、自らが神のもとから来られた方であることを証しするしるしであることを、あらためて心に刻もう。
 そして、わたしたちも、かたくなな心で、自分の考えに捉われ、自分と違う考え、ふるまいを受け入れることができず、しばしば人を裁いてしまっていることを認め、赦しを願おう。(S.T.)

FacebookTwitterEmailLinePrintFriendly

関連投稿🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

2 comments

  1. 聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、、。
    との福音を以前、毎日新聞余録が批判していた。
    聖霊というのは実はいつでもどこでもあるから、これに逆らえば、罪と罰・要件と効果などという世俗法の分裂思考パターンにとらわれなくても、
    それ自体が、裁き(善そのものを心から行えば救い)となることは自明だ。

    第一段階、神が怖いから悪を行わない。
    第二段階、神からほめられるから善を行う。
    第三段階、神と一緒に喜んで善に生きる。
    ホップ・ステップ・ジャンプ!
    神と、
    ♫ダンス!ダンス!ダンス!
    頬を寄せて、、、♫(唄、竹内まりや)

    返信
  2. 素晴らしい!
    と素直に言える勇気をいつも持ちたい。
    インターネットやSNSパンデミック以来、いいねとかオシとか人々の顔なき喝采を求め、ちあきなおみの喝采は忘却の彼方に。
    エマーソンは喝采を求めると自由を失うと言ったが、顔なき喝采より顔のある喝采の方がまし(デリタよりレヴィナス?!)。
    Don’t seek yourself outside yourself.

    返信

コメントする