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新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ

ます。:22

アントニオ修道院長

集会祈願

🌸 第一朗読 (サムエル上15.16-23)

 16〔その日、〕サムエルはサウルに言った。「やめなさい。あなたに言わねばならないことがある。昨夜、主がわたしに語られたことだ。」サウルは言った。「お話しください。」
 17サムエルは言った。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ。 18主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。 19何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」 20サウルはサムエルに答えた。「わたしは主の御声に聞き従いました。主の御命令どおりに出陣して、アマレクの王アガグを引いて来ましたし、アマレクも滅ぼし尽くしました。 21兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです。」 22サムエルは言った。
「主が喜ばれるのは
焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。
むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。
見よ、聞き従うことはいけにえにまさり
耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
23反逆は占いの罪に
高慢は偶像崇拝に等しい。
主の御言葉を退けたあなたは
王位から退けられる。」

🌸 答唱詩編 詩編50 典171 ①②

アレルヤ唱 典271 ⑯

🌸 福音朗読 (マルコ2.18-22)

マルコによる福音
 

 18〔その日、〕ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 19イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 20しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
 21だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 22また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 このたとえは、新しいものは古いものに合わない。新しい教えは、新しい心で、精神で、信仰で受け入れなければならないという意味を示しています。問題は、この新しいもの、古いものというのが、当時の人々にとって、そして現代の私たちにとって何なのか、ということです。

 洗礼者ヨハネの弟子とファリサイ派の弟子が、両者とも、度々断食と祈りをしていたと言います。

 ところが、主イエスの弟子たちは、律法で定められた断食や祈りをしなかったようです。代わりに、彼らは飲んだり、食べたりしてばかりいたようです。

 そういう様子が、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちと比べて、宗教的に、信仰的にどうなのか?不熱心ではないか?不真面目ではないか?不敬虔ではないか?神さまに対してふさわしくないのではないか?と、人々の目には映ったのでしょう。彼らは主イエスと主イエスの弟子の生き方を批判していたのです。

 私たちは、何事によらず、大概は、熱心で真面目なことが良い、と考えているでしょう。もちろん、いたずらに不真面目で、他人に迷惑をかけるような不熱心さは、よろしくないとは思います。そういう意味でも、熱心で真面目な方が良いと考えるのです。そこで、そうではないみたい人に対して非難や批判の態度を持っているかもしれません。

 けれども、主イエスは、「人々」の非難/批判はもっともだ、とは言っていないのです。私たちが同じような非難をするとしたら、それはもっともだ、とは言われないのです。むしろ、その非難とその(もと)にあるものを、よく見つめ直してみよ、と言われるのです。

 もちろん、熱心で真面目で、(礼拝を守り、祈り、奉仕し、献金し)仕事をし、社会のために働く我々それ自体を、主イエスは否定しているわけではないと思います。問題は、そのような私たちとしての行いの“中味(なかみ)”を問い直せ、ということでしょう。

 ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちの断食や祈りには、人に見せ、人に褒められようとする偽善が(ひそ)んでいたのであるかもしれません。それでは、どんなに熱心でも神さまに喜ばれるものにはなりません。本当の意味で、神さまの前に敬虔な信仰にはならず、自分のための行いになってしまいます。

 人に認められ、評価されなければ意味がないとするのが、この世の価値観であり、私たちの中にも、そのように考えているところがあるでしょう。そのような古い考えから、人が見ていてもいなくても、見えない神に喜ばれる生き方を追い求める必要があると思います。そういう中味を大切にする新しい生き方をするようにと、私たちは主イエスから求められているのです。そして批判的態度から、内面的な喜びと愛へ。古いものから新しいものへという意味です。

年間第二月曜日(1/17)
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