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教皇の意向:女性の役割 (4月)

年間第三十三火曜日(11/21)

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人の子は、失われたものを捜して救うために来た

ルカ19:10

聖マリアの奉献(記)

集会祈願

🌸 第一朗読 (二マカバイ6.18-31)

 18〔その日、〕律法学者として第一人者で、既に高齢に達しており、立派な容貌の持ち主であったエレアザルも、口をこじあけられ、豚肉を食べるように強制された。 19-20しかし彼は、不浄な物を口にして生き永らえるよりは、むしろ良き評判を重んじて死を受け入れることをよしとし、それを吐き出し、進んで責め道具に身を任そうとした。これこそ、生命への愛着があるとはいえ、口にしてはならないものは断固として退けねばならない人々の取るべき態度である。 21ところがそのとき、禁じられたいけにえの内臓を食べさせる係の者たちは、エレアザルと旧知の間柄であったので、ひそかに彼に席を外させて、王が命じたいけにえの肉を口にした振りをして、彼自身が用意し、持参している清い肉を食べることを勧めた。 22そうすれば、彼は死を免れ、その上、彼らとの昔からの友情のゆえに優遇されることになるからであった。 23これに対して、彼は筋の通った考えを持っていて、その年齢と老年のゆえの品位、更に新たに加わった立派な白髪、だれにもまさった幼いときからの生き方にふさわしく、とりわけ神が定められた聖なる律法に従って、毅然とした態度でちゅうちょすることなく、「わたしを陰府へ送り込んでくれ」と言った。 24「我々の年になって、うそをつくのはふさわしいことではない。そんなことをすれば、大勢の若者が、エレアザルは九十歳にもなって異教の風習に転向したのか、と思うだろう。 25その上彼らは、ほんのわずかの命を惜しんだわたしの欺きの行為によって、迷ってしまうだろう。またわたし自身、わが老年に泥を塗り、汚すことになる。 26たとえ今ここで、人間の責め苦を免れえたとしても、全能者の御手からは、生きていても、死んでも逃れることはできないのだ。 27だから今、男らしく生を断念し、年齢にふさわしい者であることを示し、 28若者たちに高貴な模範を残し、彼らも尊く聖なる律法のためには進んで高貴な死に方ができるようにしよう。」こう言い終わると、直ちに責め道具の方へ歩いて行った。 29今し方まで、彼に好意を寄せていた人々も、この語られた言葉のゆえに、反感を抱くようになった。彼らはエレアザルの気が違ったのだと思った。 30鞭の下で、まさに息絶えんとしたとき、彼はうめき声をあげて言った。「聖なる知識を持っておられる主は、すべてのことを見通しておられる。わたしは死を逃れることもできたが、鞭打たれ、耐え難い苦痛を肉体で味わっている。しかし、心では、主を畏れ、むしろそれを喜んで耐えているのだ。」 31彼はこのようにして世を去った。その死はただ単に若者ばかりか、少なからぬ同胞の心に高潔の模範、勇気の記念として残されたのである。

🌸 答唱詩編 詩編18 典64 ①⑥

アレルヤ唱 典268 ㉕

🌸 福音朗読 (ルカ19.1-10)

ルカによる福音

 1〔そのとき、〕イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 2そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 3イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 5イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 6ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 7これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 8しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 9イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

奉納祈願

拝領祈願

Inoruhana: Bông Hoa Cầu Nguyện
Inoruhana: Bông Hoa Cầu Nguyện

🌸 分かち合い

 今日は、ルカの、いや福音書全体の中でも最も楽しい物語の一つを紹介しよう。それは、イエスがエルサレムの北東にあるエリコの町に入ったとき、盲人を癒した直後の話である。

 中心人物はザアカイで、ルカによれば、彼は「徴税人の頭」で金持ちであった。これは聖書の中で唯一の「徴税人の頭」という言葉である。これはおそらく、彼が一地区または一地域の責任者であり、他の徴税人もその責任者であったことを意味する。当時、その地方は栄えていたので、より多くの徴税人が必要だった。

 彼が徴税人の頭であることを知っていれば、彼が裕福であったことを語る必要はほとんどなかった。徴税人は同胞のユダヤ人たちから敬遠され、軽蔑されていた。彼らはローマ当局と契約を結んで税金を徴収し、今日で言うところの気前のいい「手数料」を国民から得るようにしていた。結局のところ、それはビジネスであり、彼らは生計を立てなければならなかった。そして、普通の徴税人が高収入を得られるのであれば、徴税人の頭がどれほどの収入を得られるかは想像に難くない。

 人々に苦労して稼いだ金を手放させるだけでなく、彼らの金を奪って国を占領している異邦人ローマの植民地主義者に渡すことで、彼らは自国民に対する裏切り者とみなされたのだ。イエスがこのような軽蔑された人物と一緒に座って食事をすることで、宗教心の強い人々に大きな不快感を与えたことは想像に難くない。

 ザアカイは、イエスが町におられると聞き、イエスがどんな人なのか、とても興味を持った。ザアカイもまた『見たい』と思っているのだから。しかし、この段階では、それは一種の好奇心に過ぎないようだ。彼はただ、間違いなく人々が話しているのを聞いた人物を一目見たかっただけなのだ。もしかしたら、イエスが自分と同じような人たちに混じっていることを名指しで聞いたことがあったのかもしれない。

 彼は(いろいろな意味で)小柄だったので、イエスを取り囲む大勢の群衆を見渡すことができなかった。そこで彼は、もっとよく見ようと、先に走っていちじく桑の木の枝に登った。いちじく桑の木は10メートルから15メートルの高さまで成長し、幹は短く、枝は広がっているため登りやすく、大の大人を簡単に運ぶことができる。

 ザアカイはイエスに会いたかったが、イエスが自分を見るとは思っていなかった。イエスが彼の方を見て言われたのを聞いた時、彼は驚いて木から飛び降りたに違いない:

 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

 なんて美しい言葉だろう!そして、イエスが私たちに絶えずかけてくださるのは、自己招請なのだ:

 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3:20)

 私の家は準備ができているだろうか。彼を迎え入れるために、私の戸は開いているだろうか。

 ザアカイは耳を疑った。彼は急いで降りてきて、喜んでイエスを家に迎え入れた。するとすぐに、周りの人たちが不平を言い始めた:

 「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」

 イエスは、エリコに住む人々の中で、社会的にも宗教的にものけ者とみなされている人の家を選ばれたのだ。

 しかし、いつものように、イエスは世間一般のイメージを超えて、その人の本当の姿を見ておられる。ザアカイは徴税人の頭かもしれないが、自分の財産の半分を貧しい人々に与える用意があり、もし誰かをだましたなら、失ったものの4倍を返すと約束する。ユダヤの律法では、4倍の賠償が要求されたが、それは羊を盗んだ場合だけであった(出エジプト21:37)。ローマ法では、有罪判決を受けたすべての泥棒にこのような返還を要求した。しかし、ザアカイは、自分に責任がある不正の場合には、必ず支払うと約束している。

 ある注釈者は、ザアカイはすでにこのような形で賠償を行い、自分の富を貧しい人々に分け与えていた、とこの箇所を読んでいる。その場合、イエスは徴税人ザアカイをのけ者にしている固定観念を見抜くことができる。彼は罪人の家に行ったのではなく、善人の家に行ったのだ。イエスは常に本当の人を見て、レッテルを超えていく。私たちは同じことができるだろうか?

 どのように解釈しようとも、ザアカイは信用されない職業に属していたかもしれないが、彼の心は正しい場所、憐れみと正義の場所にあったことがわかる。

 そして、イエスはザアカイに、「救い」、完全性、誠実さが彼の家に訪れたことを告げた。軽蔑された職業に就いているにもかかわらず、彼は「アブラハムの子」なのだ。なぜなら、彼の行動は律法の要求と完全に調和しており、実際、律法をはるかに超えているからである。イエスにとっても、社会的地位が救いへの扉を閉ざすことはない。これこそが「アブラハムの子」であることの意味である。すなわち、儀式的な習慣を守るだけでなく、慈愛に満ちた、思いやりのある人であること、正義感のある人であることなのだ。

 もともとイエスを外見的に垣間見たかっただけのザアカイは、今やもっと深い意味でイエスを『見る』ようになった。その『見る』ことが、昨日の物乞いのように、彼の人生全体を変えたのである。

 さらに、罪人の家に入ったという非難に対して、イエスは言われる:

 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 イエスは別の機会にこう言われた:

 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31-32)

 イエスは良い羊飼いであり、行儀の良い九十九人を置き去りにして、道に迷った一人を探しに行く。

 この物語を読みながら、私たちには反省すべき点がいくつもある。私たちも可能な限り深い意味でイエスを見たい。そうしてこそ、私たちは真にイエスの弟子となることができる。イエスが私たちにこう言っているのを聞く必要がある:

 今日、あなたの家に泊まりたい。

 ドアを開けて、主を迎え入れましょう。

 そして、外見や社会的地位、職業から人を判断することに注意する必要がある。教会として、私たちはすでに改宗した人々に奉仕することに集中する代わりに、迷っている人々を探すことにもっと多くの時間を費やすことができる。実際、人々が自ら積極的に福音を伝えるようになってこそ、私たちは彼らを「回心した」、「善良なクリスチャン」として語ることができるのである。

Living Spaceより

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

1 comments

  1. 本日冒頭福音結語(アルファオメガ)につき一句。

    さがすのが性というもの
    人の子の

    さがとよむのだよ。

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