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教皇の意向:女性の役割 (4月)

年間第八水曜日(5/26)

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皆に仕える者になり、すべての人の僕になりなさい

マルコ10:44

聖フィリポ・ネリ司祭 記念日

集会祈願

🌸 第一朗読 (シラ36.1-2、5-6、13-22)

[1]万物の神である主よ、
わたしたちを憐れんでください。
[2]すべての異邦人にあなたへの畏れを
抱かせてください。
[5]主よ、わたしたちが悟ったように、
あなたのほかに神はおられないことを、
彼らにも悟らせてください。
[6]しるしを新たにし、不思議な業を繰り返してください。
[13a]ヤコブのすべての部族を集め、
[16b] 昔のように、彼らに遺産をお与えください。
[17] 主よ、憐れんでください。
御名によって呼ばれる民、
あなたの長子とされたイスラエルを。
[18]慈しみを示してください。
あなたの聖所がある町に、
あなたが安息の場所とされたエルサレムに。
[19]どうか、シオンをあなたへの賛美の歌で
満たしてください。
また、神殿をあなたの栄光で満たしてください。
[20]初めに創造された民に、あなたの約束を果たし
御名によって語られた預言を成就してください。
[21]あなたを待ち望む人々にふさわしい報いを与え、
預言者たちの正しいことを立証してください。
[22]主よ、御民に対する慈しみによって、
僕らの祈りを聞き入れてください。
そうすれば、
17あなたが永遠の神、主であることを
地上のすべての人は認めるようになるでしょう

🌸 答唱詩編 詩編130 典117 ①②

アレルヤ唱 典270 59

🌸 福音朗読 (マルコ10.32-45)

マルコによる福音
 32〔イエスと弟子たち〕がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
 35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今日の福音書が述べた出来事はエルサレムへの途上に起こった出来事です。これ以前に主イエスは受難予告を三度行いましたが、今回は三度目になりました。しかし、弟子たちはこの受難予告がまだ理解できなかったようです。ヤコブとヨハネは、主イエスの隣に座る栄光があって欲しいと願いました。

 ところが、主イエスは彼らの要求を断りました。なぜ主イエスが断りましたかというと、彼らに栄光を与えることを望まないわけではなく、むしろ苦しむことそのことに積極的な意味があることを教えるためです。苦しみはその後の栄光を待って始めて、という意義を持つのではありません。苦しみそのものに意味があります。ヤコブとヨハネにとっては、苦難は栄光を手に入れる手段だと思います。

 だが、主イエスはそのように考えていません。苦しみは無意味ではなく、それこそが主イエスと交わり、主イエスに従う道です。それを示すために、主イエスは「このわたしが飲む杯、…このわたしが受ける洗礼」と述べて、「わたし」を強調するのではないかと思います。すなわち、今のところ、主イエスのように、主イエスと共にこの受難の道を歩む必要があるということでしょう。

 主イエスの道は人々に仕える道です。この社会の中、少しでも高いところへ、競争して上へ上へと目指していきたい多くの人々がいるかもしれません。けれども、神様の前で、人間同士、誰が上で、誰が下で、ということは関係ないのです。今日の福音で、主イエスは、「仕える者になりなさい」、「僕になりなさい」と言いますが、少なくとも、私にとっては解放の福音だと感じています。もしも、皆さんが上下関係などいろんな意味で人と比較して悩んだり苦しんだりしているならば、今日の福音を本当に解放の福音だと感じてもらえたら、と思いました。

 「仕える者になりなさい」、「僕になりなさい」人間のレベルだけ見ていたら、損な生き方かもしれません。でも、神様との関係を見つめたとき、新たな光が与えられると思います。私たちはみな神様の僕(しもべ)だというところに立って、そして、そのことを喜んで生きられる、という生きかたに招かれています。神様が私たちを僕として、私たちを仕える者としてここに置いてくださっています。

 主イエスの道はまさにそういう道です。自分を無にして、徹底的に人々に仕え、人々のために自分の命までも差し出していく道、それがイエスの道でしたし、私たちを解放していく道は、このイエスの道なのだ、ということを今日、受け取って頂ければと思います。 主イエスのように人々に仕えるために、報いを求めずに苦難を歩めたら、そのほうがはるかに素晴らしいに違いません。

 ですが、恐れのあまりよたよた歩く頼りない弟子ではあっても、主イエスの後を追っています。弟子とはそういう者なのでしょう。私たち一人ひとりが主イエスと共に、仕える者としての、そして、神の僕としての道に招かれていることを感謝しながら、今日のミサをささげ続けたいと思います。

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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