♰ キリストにおいてすべてを新しく見る ♰

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教皇の意向: 新たな殉教者 (3月)

復活節第二主日(4/11)

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信じてイエスの名により命を受ける

ヨハネ20:31

(神の慈しみの主日)

集会祈願

あわれみ深い神よ、あなたは、キリストのとうとい血によってわたしたちをあがない、水と聖霊によって新しい命を与えて下さいます。年ごとに主の復活を祝うわたしたちが洗礼の恵みを深く悟り、信仰に生きることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (使徒言行録4.32-35)

 32信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。 33使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。 34信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 35使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。

🌸 答唱詩編 詩編118 典87 ①②③

:きょうこそ神が造られた日、
  喜び歌え、この日をともに。

恵み深い神に感謝せよ。
そのあわれみは永遠。
イスラエルよ、叫べ。
神の慈しみは絶えることがない。 【答】

神の右の手は高く上がり、
その右の手は力を示す。
私は死なず、私は生きる、
神のわざを告げるために。 【答】

家造りの捨てた石が
隅の親石となった。
これは神のわざ、
人の目には不思議なこと。 【答】

🌸 第二朗読 (一ヨハネ5.1-6)

 1〔愛する皆さん、〕イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。 2このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。 3神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。 4神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。 5だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
 6この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。

アレルヤ唱 典264(第二主日)

あれるや。トマよ、あなたはわたしを見たので信じた。見ないで信じる人は幸い。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (ヨハネ20.19-31)

ヨハネによる福音
 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。
 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

奉納祈願

神よ、あなたの民の供えものを顧みてください。信仰告白と洗礼によって新たないのちに生まれた人々が、まことのしあわせにあずかることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

全能の神よ、主の死と復活を記念する秘跡にあずかったわたしたちが、いつもそのめぐみによって生きることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 先週の日曜日、全世界の教会は復活祭のお祝いをしました。コロナ禍であっても、それぞれの状況の中で、信仰の原点である復活への信仰を新たにしました。そして、これからしばらく、教会は復活節を過ごします。昨年は、復活祭を挟んで2か月余り、ミサができなかったことを考えれば、感謝しなければなりません。

 わたしたちの信仰の原点は、十字架上で亡くなったイエスが復活して生きておられるという信仰ですが、聖書の中には、墓に葬られたイエスがどのように復活されたかという、復活そのものについての記述はありません。聖書が記しているのは、復活されたイエスが、いろいろな時に、いろいろな形で自らを現わされ、生きておられることを示された、いわゆる出現ということです。復活されたイエスと出会って、使徒とされた聖パウロは、こう記しています、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。・・・」と。

 今読まれたヨハネ福音書が記していることもその一つでしょう。ご存じのように、弟子たちがユダヤ人を恐れて家の戸の鍵をかけていたところにイエスが入って来られた時のことです。ヨハネは、弟子たちがどんな思いを抱いたか、どんな反応を示したかは記しません。ただ、冷静に主イエスがご自分の手とわき腹をお見せになると、「弟子たちは主を見て喜んだ」とだけ記します。そして、イエスは弟子たちに平和を祈り、彼らを派遣し、罪を赦すための聖霊を送ると言われます。

 その後、たまたまその場に居なかった、弟子の一人トマスは言います、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。あたかもトマスが疑い深い人のように、懐疑主義者のように解釈されることがありますが、はたしてそうでしょうか。他の弟子たちがイエスを信じたのは、イエスがその手とわき腹をお見せになったからです。トマスは、ただそこに居合わせなかっただけのことです。弟子たち皆にとって、あの十字架で亡くなられたイエスが復活なさるとは全く信じられないことだったのです。

 そして、八日後に、トマスが他の弟子たちと一緒にいたとき、イエスが再びお出でになって、トマスに言われます、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と。トマスは、他の弟子たちと同じように、傷跡の残るイエスの体を見て、イエスの復活を信じ、「わたしの主、わたしの神よ」と言います。素晴らしい信仰告白です。すると、イエスはトマスに言われます、「(あなたは)わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。イエスの傷跡の残る身体を見て信じたのは、トマスを含む弟子たちに与えられた特別の恵みです。わたしたち、使徒たちから伝えられた信仰を守る信仰者は、イエスから幸いと言われた「見ないで信じる人」です。

 わたしたちは、どこかで、「メシアは苦しみを受けて栄光に入る」というルカが記しているイエスの言葉から、「受難の後に復活が来る」という考えをもっていないでしょうか。四旬節が終わって復活節が来るように、受難の時が終わって、復活の時に入る、と簡単に考えていないでしょうか。イエスが弟子たちにお見せになった傷は、ただ、それがあの懐かしい先生のしるしであるだけではありません。たしかに、イエスは苦しみを受けて復活されました。しかし、その受けた傷は、新たな命、神の命への道となったのです。復活は、決して一切の苦しみを取り去ることではなく、苦しみの中にあっても、そこに栄光に導く道があると信じることです。イエスはまさに、そのような方として、わたしたちの信仰の中心に立っておられるのです。十字架がキリスト教のシンボルになったのはそのためです。パウロは言います、「わたしたちは、十字架に付けられたキリストを宣べ伝えています」(1コリ1.23)と。

  十字架に付けられて傷を受けられたイエスは、復活して栄光に導かれました。しかし、イエスの受けた傷は、イエスの体である教会の中に受け継がれています。わたしたちが事故や病気、災害、離別等、で受ける苦しみ、そして、教会が受ける様々な苦しみ、痛み、傷は、すべて、イエスが受けられた苦しみにあずかることです。わたしたちが人生の中で経験する様々な苦しみ、そして、教会が歴史の中で耐え、そして、今も負っている信仰ゆえの弾圧・迫害・苦しみはイエスの苦しみにつながっているのです。しかし、イエスの復活によって、イエスの受けた傷が神の命への道になったように、わたしたち人類が担う苦しみはイエスが開かれた、神の命へとつながる道となるのです。パウロは書きます「わたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイ1.24)と。

 この信仰の核心である過ぎ越しの神秘を、日々の営みの中で、一層深め、そこから真の喜びと希望を得ることができますよう、お祈りいたしましょう。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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