非営利団体のボランティアのために祈る (12月)

年間第三主日(1月24)

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わたしについて来なさい

マルコ1:17

神のことばの主日

集会祈願

いのちの源である神よ、移り変わるものごとに心を奪われがちなわたしたちに、あなたは変わることのない救いの喜びをお与えくださいます。ここに集うわたしたちの心を新たにし、キリストに従って歩む者としてください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (ヨナ3.1-5、10)

1主の言葉が再びヨナに臨んだ。 2「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」
3ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。 4ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。
「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」
5すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。
10神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

🌸 答唱詩編 詩編25 典137 ①②③

答 すべての人の救いを願い、
  わたしはあなたを待ち望む。

神よ、あなたの道を示し、
その小道を教えてください。
あなたの心理のうちに、
わたしを導きさとしてください。  【答】

神はあわれみ深く正義に満ち、
罪びとに道を示される。
神は貧しい人を正義に導き、
へりくだる人にその道を教えられる。  【答】

契約っとさとしを守る人に、
神への小道はいつくしみとまことにあふれる。
神をおそれる人に神は心を開き、
契約を示し、さとされる。  【答】 

🌸 第二朗読 (一コリント7.29-31)

 29兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、 30泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、 31世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。 

アレルヤ唱 典268 3B

アレルヤ、アレルヤ。神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マルコ1.14-20)

マルコによる福音
14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
 16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 18二人はすぐに網を捨てて従った。 19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

奉納祈願

悔い改める者の希望である神よ、あなたの招きにこたえこの食卓を囲むわたしたちを顧みてください。キリストの奉献に心を合わせ、自分自身をささげることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

喜びの源である神よ、キリストのことばといのちのパンに養われ、新たにされて祈ります。日々の生活の中に派遣されるわたしたちが、神の国のための働き手となることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 四旬節に入る前の短い年間の季節には、イエスの公生活の始めの部分が順次読まれます。今日は、最初の弟子たちが招かれた有名な場面です。先週は、ヨハネ福音書から、洗礼者ヨハネの紹介でイエスのもとに導かれた弟子たちのことが読まれましたが、今日のマルコの記述は、イエスに呼ばれたものが経験する「召命」の典型的な形です。

 そこで、まず気が付くのは、弟子たちが呼ばれたのは、彼らがその生業としている漁師としての生活の場であることです。どこか、普段とは違う、よそ行きの顔をしている場面ではなく、ありのまま、仕事の現場で主から声をかけられていることです。昔の預言者の召命も似ています。預言者アモスは、「主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民、イスラエルに預言せよ』と言われた」(アモス7.15)とあります。預言者イザヤも、祭司のつとめを神殿ではたしているときに、主の呼びかけを聞き、「『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』」(イザヤ6.8)と言います。主がわたしたちを招かれるのは、わたしたちが特別に準備した状態においてではなく、むしろ、何の用意もない、ありのままの現実であることを心に留め、主がそこにまで、降りてきてくださることを銘記しましよう。

 もう一つの点は、呼ばれたのは湖で魚をとる漁師たちだということです。「漁師」、あるいは、「魚を捕る」、という言葉は、旧約聖書にはほとんど出てきません。なぜ、イエスが最初に呼ばれた弟子が漁師だったのでしょうか。イエスの活動の舞台がガリラヤ湖畔一帯だったからということもあるでしょう。旧約聖書の舞台は、主にイスラエルの南、砂漠や丘陵地、あるいは、農地で、そこに登場する人物も、遊牧民や農夫が多く、牧畜や農業に関する話が多いのも当然かもしれません。

 漁師や漁業というと、この下関では、なじみ深い職業だが、その特徴は何でしょうか。ガリラヤ湖と違って、外洋は、より大きな危険を伴う世界ですが、そこで手に入れようとする魚も、陸上で飼育したり、栽培する動植物と違って、季節や波、海流の影響が強く、不安定で、人間の思い通りにならない部分が極めて大きい生き物と言わねばならなりません。そのような、ままならない生業の人間を弟子にしようとするイエスは何を考えておられたのでしょうか。イエスは、シモンとアンデレに向かって、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われます。魚以上に難しい人間を相手にする仕事が託されたとき、弟子たちは何を感じたでしょうか。

 シモンとアンデレ、そして、次に呼ばれたヤコブとヨハネは、「すぐに網を捨てて従った」、そして、「父ゼベダイと雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」とあります。はたして、自分たちの生業の一切を一瞬にして投げ出してイエスに従うということは、文字通り受け取ってよいのでしょうか。イエスの人間的な魅力、あるいは、迫力が並ではなかったということは言えるでしょう。しかし、福音書は、その細部については一切触れません。それはともかく、彼らが、イエスとの出会いを契機として、イエスの弟子としての新しい生き方を始めたとすれば、それは、一体何のためだったのでしょうか。イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、宣教活動を始められました。イエスに呼ばれた弟子たちが、イエスの活動に参加することを期待されたことは十分理解できます。しかし、イエスと生活を共にし、一番近くでイエスに接していた弟子たちが、その生活の中で、繰り返し、イエスを誤解し、イエスから叱責を受け、イエスを悩ませたことも事実のようです。挙句に、弟子の頭であるペトロは、受難の場面で、イエスを知らない、と言い、同じ12使徒の一人はイエスを裏切りさえしました。そのような弱さに満ちた人間をイエスが招かれたのはなぜでしょうか。

 弟子たちが、イエスのように、「神の国は近づいた。福音を信じよ」と自信をもって宣べ伝えるようになったのは、イエスの死後、復活されたイエスが彼らの上に聖霊を注がれた後であることを思い出さなければなりません。イエスがもたらそうとされた福音は、イエスの誕生によって始まり、その宣教活動によって成長発展し、その死によってはじめて実を結ぶものであること、イエスの死をもって、あらわにされた神の愛こそが、福音の核心にあることを思い起こしましょう。福音が、イエスが自らの死をもって完結された神ご自身の自己啓示であることを、決して忘れないようにしましよう。

 わたしたちキリスト者は、皆、何らかの形で、弟子たちの召命に与っています。自分たちの人生の、それぞれの時に、主の招きを受け、弱さにも拘わらず、主の働きに参加する使命をいただいていることを感謝しましよう。そして、日々、イエスご自身が生きられ、弟子たちがそれに与った福音の喜びを、人々と分かち合うことができますよう共にお祈りいたしましょう。(S.T.)

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