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教皇の意向: 新たな殉教者 (3月)

年間第十三土曜日(偶数年)

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「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。

マタイ9:15
集会祈願

🌸 第一朗読 (アモス9:11-15)

アモスの預言

〔主は言われる。〕
その日には
わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し
その破れを修復し、廃虚を復興して
昔の日のように建て直す。
12こうして、エドムの生き残りの者と
わが名をもって呼ばれるすべての国を
彼らに所有させよう、と主は言われる。
主はこのことを行われる。

13見よ、その日が来れば、と主は言われる。
耕す者は、刈り入れる者に続き
ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。
山々はぶどうの汁を滴らせ
すべての丘は溶けて流れる。
14わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。
彼らは荒された町を建て直して住み
ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み
園を造って、実りを食べる。
15わたしは彼らをその土地に植え付ける。
わたしが与えた地から
再び彼らが引き抜かれることは決してないと
あなたの神なる主は言われる。

🌸 答唱詩編 詩編85 典81③⑤

答:神よ、わたしに目を注ぎ、
  強めてください、手をさしのべて。

神の語られる言葉を聞こう。
神は平和を約束される、
その民、神に従う民に、
心を神に向ける人に。 【答】

まことは地から芽ばえ、正義は天から見守る。
神は恵みを注がれ、地は豊かに実る。
正義は神の前を進み、
平和はその足跡に従う。 【答】

アレルヤ唱 典272㉖

アレルヤ、アレルヤ。羊はわたしの声を聞き分け、わたしもその羊を知り、羊はわたしに従う。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マタイ9:14-17)

マタイによる福音

〔その時、〕ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。 15イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。 16だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。 17新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今日読まれた福音書の中で、イエスは言われます、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ」と。聖書の中には、ぶどう酒にまつわる話がいろいろあります。イエスは、結婚式で水をぶどう酒に変えられた話がヨハネ福音書にありますし、ご自分の遺産として残された御体と御血も、パンとぶどう酒の形を通してでした。しかし、ここで言われる「新しいぶどう酒」は、文字通りのぶどう酒ではなく、新しい教えを指すたとえと思われます。イエスの教えが、それまでに語られたこととは違う、新しさにあふれていたことに、人々はすぐに気づきました。ユダヤ人が大事にする律法に詳しい律法学者のようではなく、「権威ある新しい教えだ」と人々は感嘆の声を上げた、と福音書は記しています。
 何が新しかったのでしょうか。イエスが語ろうとしたことは、学者たちがしていたような細々とした条文の解釈ではなく、律法の根本を説くもの、ひと言でいえば、律法が求めているのは、愛そのものだ、ということです。それも、ただ、人間に人を愛することを求められたのではなく、それに先立って、神ご自身があふれるほどの愛に満ちた方であることを教えられたのです。その愛にあふれた命にあずかるために、人間も愛するもの、神と人を、自分のように、時には、自分を忘れて愛するものになれということです。
 この3か月あまり、わたしたちは教会に集い、神様を賛美することができませんでした。ともに、神の言葉を聞き、賛美の歌を歌い、イエスが残された聖体をいただくこともできませんでした。それは大きな痛みであり、辛い日々でした。教会だけでなく、学校も、施設も、お店も、会社も休業を余儀なくされ、みじめな思いで日々を過ごしました。そして、今ようやく、少しずつ制限が緩和され、通常の生活に戻っていくことを感じます。しかし、この異常で、耐え難かった日々は、決して、マイナスばかりではありません。教会に行けない、学校に行けない、会社に行けないという経験は、当然と思っていたことができなくなることによって、すべてを新しい目で見る機会を与えてくれたのではないでしょうか。自分自身の生活の在り方を含めて、家族のこと、友達のこと、遠くにいる知人のこと、そうした人間同士のかかわりを以前よりも、大切に思う時でもありました。普段、ついつい夢中に追い求めてきたことが奪われることで、人間とは何者なのか、何のために生きているのか、人生で何が一番大切なのは何かを考えさせられたかもしれません。
 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉は、決して、イエスの教えのことだけではありません。イエスの存在そのものが新しさそのものなのです。神の子であり、父なる神と一つであることを言明された方が、わたしたち人間の現実、疲れ、痛み、悩み、そして、必ず死を迎えなければならない、その現実に自らを置いてくださった、そこにかつてなかった、まったく新しい現実があります。それがわたしたちの希望の源です。わたしたちは、たとえ、様々な苦しみや病気、さらには死といった悲惨な現実に直面したとしても、わたしたちに先立って、それを経験してくださった方が、ともに人生を歩んでいてくださることを信じています。そこに、わたしたちの喜び、光、力の源があります。こうした希望を一層深めることができるよう祈りましょう。

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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