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教皇の意向:女性の役割 (4月)

イエズス会歴・7月2日・聖人と福者

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聖フランシスコ・デ・ジェロニモ 司祭

 フランシスコ・デ・ジェロニモ(イタリア語読みでは「フランチェスコ」)は、1642年12月17日にイタリア南部タラントの近くで生まれた。11人兄弟の長男だった。1日 歳の頃、近くのテアティニ会の神父たちのもとで生活し、教会の聖具係りを務めていた。たびたび神父たちの巡回ミッションに随伴し、要理を教えた。1658年、16歳の時、を受けて司祭志願者となった。1659年、テアテイニ会に納められて、古典文学と哲学を学ぶためにタラントのイエズス会学校に入った。1665年、ナポリのイエズス会学院に入り、民法や教会法を学び、1666年3月20日に司祭に叙階された。4年を経た1670年7月1日、27歳でイエズス会に入会した。イタリア南部を巡り、説教と霊操指導に専念した。1676 年に神学の総合試験に合格し、ナポリに配属され、その後40年間にわたって、都会での司牧活動に従事した。1702 年まではナポリとその郊外で、それ以後は、半年をナポリで、半年をさまざまな地域を巡回して活動した。日本への派遣を願い出ていたが、「ナポリ王国があなたの日本だ」と長上たちに言われた。

 デ・ジェロニモ神父は大通りや広場で説教し、短い説教を40回もした日もあったという。彼の説教は有名になったが、話し方は素朴で、心がこもったものであり、説得力があった。特に毎月一回、聖体拝領するように促した。一般の男性 200 名ほど集めて、信心会を設立し、風俗営業の多い港町での使徒職に協力してもらった。病人を見舞い、ナポリ湾に停泊する船の中で鎖につながれた奴隷や犯罪者を励ました。病人を見舞う際、フランシスコはいつも聖シルの聖遺物を携えていた。3世紀のアレクサンドリア出身の医師であったこの殉教者の聖遺物を手にして祈り祝福する時、多くの癒しがあると言われた。癒しや予言で有名だったデ・ジェロニモ神父は、癒しなどの成果を聖シルに帰していた。

 ナポリでしばらく成功を収めた後、ある聖職者たちは嫉妬心を抱き、彼を大司教に告発した。デ・ジェロニモ神父は町で極罪人とかかわっているので、可祭や修道女などに霊操指導をするのは不適当で、禁止すべきだと訴えたのである。その結果、辻説教を禁じられた。その代わり、彼は告解を聞くことに力を尽くした。大司教はやがて彼に対する非難が不当であることに気付き、謝罪して復帰させた。その次は、自らの管区長からの批判であった。活動のために共同体の行事に参加していないので、外部の活動のために許可を頼むべきだとした。しかし許可を頼んでも、しばしば与えられなかった。このような状況に際しても、冷静だった。

 1716年5月11日、フランシスコは肺炎で帰天した。1806年5月2日、教皇ピオ7世によって列福され、1839年5月26日、グレゴリオ16世によって列聖された。

 「フランシスコは説教を準備する時、祈りと苦行をもって神の御助けを頼む傍ら、時間が許す限り勉学に励在、入会前にも後にも得た知識を生かした。」(レドホフスキー総長、AR 11 (1910 164)

AMDG

編集者:イエズス会、ロバート・キエサ神父

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

1 comments

  1. 聖なるマリア様!その通り!アーメン!

    編集者のキエサ神父は私に初めて「イエスの仲間」という言葉を教えてくれた人。
    誰の仲間になるかが決定的。
    特に大罪を犯したあと。
    ペトロとイスカリオテのユダの違い。

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