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教皇の意向: 新たな殉教者 (3月)

年間第十火曜日(偶数年)

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集会祈願

全能の神よ、わたしたちがいつも聖霊の光を求め、ことばと行いをもって、み旨を果たすことができるように導てください。聖霊の交わりの中であなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

???? 第一朗読 (列王記上17:7-16)

 〔その日、エリヤがとどまっていたところの近くにある〕川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。

 8また主の言葉がエリヤに臨んだ。 9「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」 10彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。 11彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。 12彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」 13エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。 14なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。

主が地の面に雨を降らせる日まで
壺の粉は尽きることなく
瓶の油はなくならない。」

 15やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。 16主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

???? 答唱詩編 詩編4 典70①④

答:神を、あなたの顔の光を
  わたしたちの上に照らしてください。

正しさをまもってくださる神、
わたしの叫びにこたえ、
悩みの中にもいこいを与え、
わたしをあわれみ、心に留めてください。 【答】

あなたがわたしの心に与えてくださるよろこびは、
小麦とぶどうの豊かな実りにまさるもの。
神よ、わたしの平和はあなたのうちにある。
わたしは床につき、心静かに眼る。 【答】

アレルヤ唱 典271⑳

アレルヤ、アレルヤ。あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたのよい行いを見て、天の父をあがめるように。アレルヤ、アレルヤ。

???? 福音朗読 (マタイ5:13-16)

マタイによる福音

〔その時、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

奉納祈願

神よ、この供えものを聖霊によってとうといものにしてください。心からの奉献を受け入れ、主と結ばれるわたしたちを、永遠の供えものとしてくださいますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

神よ、いのちの糧に養われ、感謝の祈りをささげます。キリストに結ばれた人が聖霊に導かれ、正しい道を歩み続けることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

???? 分かち合い

 山上の説教の中の言葉:「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」。イエスの言葉を聞き、その不思議な業を目撃して、イエスに従う決意をした弟子たちに対する励ましの言葉に聞こえる。
 しかし、よく考えてみると、こうした言葉とともに、イエスはこうも言われる、「わたしは世の光である。わたしに従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8.12)と。マタイにこの言葉はないが、決して、それを無視しているわけではない。光としてこの世に来られたイエスに従うものは、それだけですでに光を浴びて、たとえ小さくても、光り輝くものとされたのではないか。
 そうであるとすれば、たとえ「世の光である」と言われても、それは感謝すべきであっても、誇りにすべきことではない。自分の力、自分の努力で、立派な業績を残し、人々の前で光を輝かす人もいよう。しかし、イエスの弟子になったものの光は、決して、自分が何かしたから人々に光を与え、周りを照らすということではない。もっぱら、光をいただいて、その反映のように、周囲に光をもたらす存在になるということではないか。
 フランシスコ教皇のきれいな言葉がある。「川は自分の水を飲みません。木々は自分の実を食べません。太陽は自分自身を照らしません。」光も、まさに、そのようなもの。自分自身のためでなく、周囲のものに光を与えるために輝くのだ。
 そんな光であるならば、その光を放ち続けるために、何が必要なのだろうか。イエスとの絆を大切にし、その光をいただくために、もっとイエスを知り、愛すること、そして、人々に自分を惜しみなく差し出すことではないか。

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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