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教皇の意向:女性の役割 (4月)

年間第十月曜日(偶数年)

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Tiếng Việt

集会祈願

慈しみ深い父よ、あなたはわたしたちを選び、光の子として下しました。わたしたちが罪の闇に迷うことなく、いつも真理の光のうちに歩むことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

???? 第一朗読 (列王記上17:1-6)

 〔その日、〕1ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
 2主の言葉がエリヤに臨んだ。 3「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。 4その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」 5エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。 6数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。

???? 答唱詩編 詩編121 典71①④

答:神を、あなたの顔の光を。
  わたしたちの上に照らしてください。

目をあげてわたしは山々をあおぐ。
わたしの助はどこから来るのか。
助けは神のもとから、
天地を造られた神から来る。 【答】

神はすべての悪からおまえをまもり、
いのちをささえられる。
神はおまえの旅路をまもられる、
今よりとこしえに。 【答】

アレルァ唄:

アレルヤ唱

アレルヤ、アレルヤ。喜び踊れ。天においてあなた方の報いは大きい。アレルヤ、アレルヤ。

???? 福音朗読 (マタイ5:1-12)

マタイによる福音

 〔その時、〕1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
 3「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
5柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
6義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
7憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
9平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
 11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

奉納祈願

全能の神よ、あなたのことばにしたがって、この供えものをささげます。わたしたちがみ心にかなう者となり、いつもあなたの道を歩むことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

喜びの源である神よ、いのちのパンにあずかったわたしたちを救いの喜びで満たし、真理の光のうちに導いてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

???? 分かち合い

 今日の福音書は7章の終わりまで続く「山上の説教」の冒頭部分です。特に3-10節は神に「幸い」とみられる人は誰であるかを説明する言葉であり、「真福八端」とも呼ばれた個所です。この箇所を読んでみますと、3節と10節はどちらも「天の国はその人たちのものである」であり、この表現によって3-10節全体は囲い込まれていることになります。だから、幸いな人は天の国に向かって生きる人、その国に入る人なのです。

 さて、天の国に入るために、どんなことを生きたらよいでしょうか。主イエスの教えは世的に見れば全く逆になります。主イエスは心の貧しい人や悲しむ人などは幸いであると教えてくださいます。なぜでしょうか。これらはおかしいではないかと私たちが思ってしまうかもしれません。

 しかし、主イエスは、現在がどういう状況であっても、それを神から与えられた祝福として受け取るならば、その人は幸いだと言われるではないかと考えられています。「心の貧しい者」はこの世に究極の救いがないことを知るから、この世の栄誉や成功を求めません。「悲しむ者」は自分が泣いたことがあるから、泣く人と共に泣くことが出来ます。「柔和な者」は自らの力に頼らないから、他者に対する妬み、憎しみや敵意なども生れません。「義に餓え渇く者」は神の支配を待ち望み、その日は来ると信じる故に、現在の不正に負けないということです。とにかく、貧乏や苦難などであるから人間的な力に頼ることができず、神に頼ることです。もし人間の力に頼るならば、いつか傲慢になったり、絶望になったり、もっとひどく災いになったりする可能性があると思います。

 従って、主イエスが言われたことには二つの特徴があります。一つは「思いが自分ではなく他者に向かう」こと、もう一つは「思いが現在ではなく将来に向かう」ことです。将来に向かうというのは神の力、神の祝福と恵みを求めて、神の国に入ろうとすることです。人間の求める幸福は、「思いが自分自身に、そして現在に」集中します。世の人々が求める幸福は、富であり、健康であり、成功であり、栄誉です。それらは全て自己のためのもの、人は「我が富、我が健康、我が成功、我が栄誉」を求めます。そして、誰もがそれを欲しがるから、競争が起こり、競争があれば勝者と共に敗者が生れます。一人が富を得るということは、他の多くの人は富を得られないことになるということが考えられています。

 主イエスの教えに従い、主イエスの道を歩むのは難しいかもしれませんが、それは私たちが神に祝福していただくために、良い教えであり、良い道だと思います。現在がどういう状況であっても、それを神から与えられた祝福として受け取ることができますように、お祈りしましょう。

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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